被災地外からの戯言、あるいは傍観者的・・・文系的暴言あるいは煽り・・・過疎地からの反乱

東電ばっか非難ってのもなんか違う気がしてきたり、その事故を起こした東電に事故処理を丸投げってのも現政府終わってるし、原発行政、推進してきたのは、自民党「きっこのBlog」によるとこういう人たちだったり、まあ本当のことなんて五里霧中状態で、僕もほんらいなら「エネルギー復興なんかいらねぇ − 純丘 曜彰」と、こういうスタンスでいきたいんだけれど、なんだか心のわだかまりがふつふつと沸きはじめてきて・・・原発ってのは過疎地からの反乱じゃないかとおもい始めた。

 大都会のてめえらはなんのリスクもしょわず好きなだけ電気使いやがって、華やかな夜のすごし方だと!! 物心両面いい思いしやがってみたいな原発の立地を積極的に誘致してきた過疎地が声高に叫んだとしたら、お前らだってそれなりの恩恵をこうむっていたから多少恐いけれど、100%安全だとも思ってないけれど、受け入れたんだろ原発を、なんて、叩かれたりするのを見てると、一躍脚光を浴びた過疎地(不謹慎は重々承知であえて)がその、底辺に流れる都会への反感(リスクをなにも背負わず電気を享受するという態度うんぬん)の発露として原発を利用するのは、かなりきついしっぺ返しとしては、ラスボスのように危険かもしれない。

 都会で意思決定をまとめるのは容易ではないし、東京に原発を建設するなどという戯言は恐らく論外だ。

 だが、福島や遠い新潟に建設するのはどうだ? それも小さな漁村や農村だ。反対の声も小さい。嫌われ者の原発も積極的に誘致さえしてくれる。

では、人口数百の村、数千の町、それも忘れ去られたような土地に原発の誘致話を持っていくとしようか、そこにはなにもない。華やかな生活など、皆無。
病院や娯楽施設の類すらない。そこには少数の若者と多くの老人しかいない。地域振興できるような産業ももちろんない。

 老いさらばえて死んでゆくだけ・・・それでも、その土地の人たちはそこから出てゆこうとしない。唯一の望みは安らかな生活だったはずだ。

 政治からも取り残され、200キロ先には日本でも一番の大都会があるというのに・・・原発がなければ、いずれ廃村だったはず、そこに誰も見向きもしなかった村のことを考えてくれる一団が現れた。過疎の村をどうやら救ってくれるらしい。

 この村で安らかで穏やかな人生をまっとうできるらしい。廃村にもならず、道路も、公民館もりっぱなものが建てられ、死ぬまでどうやらここで安楽に暮らせるらしい。
 そうであっても、なんの魅力もない村を出てゆく若者は一向に減りはしないし、原発は地域振興の役には立たない。雇用は確かに確保されたけれど、たかが知れている。やはり若者は都会に出る。

 しかし、村の住人は、安らかな生活が続くと思っていた。死ぬまでこの土地で暮らせると思っていた。3月11日までは・・・。

もしも、こういった過疎地の原発が一度事故を起こしたら、それは物言わぬ過疎地からの反乱だ。

 福島で今以上の事故が起きれば東京が壊滅し、福井で起きれば大阪、京都が壊滅的打撃を受ける。いや、その汚染は日本中、そして世界に広がるかもしれない。

 大都会の命運は数百、あるいは数千の人間の手にゆだねられている・・・いや、日本の命運すら握られている・・・過疎地からの反乱・・・。