2006
中央公論新社
レイモンド カーヴァー, Raymond Carver, 村上 春樹

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 「愛について語るときに我々の語ること」
原題はWhat We Talk About When We Talk About Love.

 日本語では絶対にこういう言い方はしないよね、言い方ってか表記ってかね、
でも、ほら語るの二重表記ってすごい印象が強いんだよね、僕はカーヴァーの詩集で「夜になると鮭は...」"At Night the Salmon Move" が、とても好きです。

 特に表題の「夜になると鮭は……」は、静寂がひっそりと息づいてるような、鮭は愛するものの分身なのか? まるで時の音が聴こえるような、そんな詩が好き。
で、「愛について語るときに我々の語ること」著者は レイモンド・カーヴァー 訳者はもちろん村上春樹です。

 村上春樹の新刊「走ることについて語るときに僕の語ること」これって、カーヴァーへのオマージュですかねえ……、村上春樹がいなければ、カーヴァーがこれほど日本でメジャーになることってなかっただろうしね。
 村上春樹の「1973年のピンボール」が大江健三郎の「万延元年のフットボール」のオマージュというのは承知の事実です。学生運動を目の当たりにしてもなお、ノンポリの姿勢を崩そうとしない、あるいは、通り過ぎていった60年代を引きずっている僕が主人公だから。

 しかし、新刊が出たとたんにこんなに書評がBlogやらHPで取り上げられるっていうのも村上春樹くらいでしょうね、書評、拾い集めていたら、もう充分お腹いっぱいだものw
 何だかそれぞれの胸の中にそれぞれの村上春樹がいるみたいな、そんな感じです。

 
 こういう言い方って反則だよね、インパクトが強いからね、で、題名だけ見ると、走ることそのものを語ってるのか、走るっていう行為を通して自分自身の事柄を語りたいのかよく分からない。
 これはH・エリスンの「世界の中心で愛を叫んだ獣」』(The Beast that shouted Love at The Heart of The World)意味が分からない題名とよく似てる。
 こういう題名って日本語では絶対出てこないよね、翻訳モノでしか表現できない類のものだと思うの。
 

 村上春樹の小説の場合、主人公はほとんど何も選択していないんだね、自己をほとんど表出させないんだ、自分はただ静かに客観的に起きること、起きたことを、判断する。ただじーっと待ってると勝手に誰かが消えちゃったりするわけだ。それで、仕方なく重い腰を上げる、そこから物語が始まるんだね。
 まるで達観した木枯らし紋次郎だ、あっしには関わりない〜と言いながら、巻き込まれるんだ。
まあ、何かに巻き込まれなきゃ物語は始まらないしね。
 関わりたくない主人公が関わらざるおえない矛盾を抱えてるのが村上春樹の小説なんですね。

本人が「遠い太鼓」で書いていることに照らしあわせると「アフターダーク」以降長編出てないわけですから、短編集とエッセイと翻訳ものの後には必ず長編書きたくなるって言ってるので。要するに短距離を練習で走ったあとにマラソンに挑戦したくなるらしいから、新作は真近ってことなのかな?

で、「走ることについて語るときに僕の語ること」を読んだ感想なんかを書き留めておこうと思ったんだけれど、お腹いっぱいなのでこの辺で。